8月も終わりだというのに暑い。別に二酸化炭素のせいだけとは思わないが、これだけ暑いと、少し信じたくなる。もう少し涼しくならないと、植物の植え替えもできないし、日中2時間くらい歩くと、ヘロヘロになる。昨日も歩きながら、昔、管理人さんが映画の撮影の時に泳いだ川を橋の上から眺めていたら、気持ちよさそうにスッポンだか、クサガメが泳いでいた。カメはいいなあ。
コンサートの余韻もあり、昔、管理人さんと話していたことを反芻すると、こんなことを考えた。
オフコースが全盛だった1982年は、TVで「NEXT」が放送されたりで、まさに社会現象的ブレイクだったから、小田和正という存在を知っていた層は、恐らく僕らの世代の8割くらいはいたろう。そういうことだから、僕ら世代プラスマイナス10年くらいが小田和正と「縁」があったのだが、今現在もツアーに参加するか、目覚ましテレビと特番に注目するという、普通のファンはおそらく全国に500万人くらいはいそうだが、そこまでいないだろう。結婚でもなんでもそうだろうが、「縁」だけでは、交際がない。
ここからが運だが、僕には共通の小田さんファンの管理人さんがいた。高校から大学まで同じ話題で語れる存在がいかに重要か、今さらではあるが、やっとわかった。一人ではとうの昔にファンであることをあきらめていたろう。これが第一の運。
次に、熱烈にコンサートへ行くようになったのは子供が大きくなり、取り立てて夫婦と行動する必要が薄くなった40代だが、この時期に小田さんが「クリスマスの約束」、「風のように歌が流れていた」等の自分たち中年世代の指針となる活動を続けてくれていたこと。
これが実に大きかった。誰でもいいが、例えば八神純子でもなんでも、今活動はゼロではないが、テアトロンを一杯にしたり、82年当時とほぼ同じ声(「1982.6.30」の「言葉にできない」は今見ても凄まじいが)なんて、とても考えられない。
小田さんが生きていたこと、今もアーティストとして生きていたことは、僕らの世代にとって奇跡であり、ファンにとっては福音に等しい。問題は、僕等はあと何年、いや何十年「小田和正」(アーティストとしての)とともに生きれるのか。石川で出会った老夫婦のように小田さんという存在と唄を追いかけていきたい。
繰り返す。小田和正という存在は僕にとって奇跡のような出来事だった。(ゲンゴロウ)
花火:E市の花火大会。カメが泳いでいた川で撮った。
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