日日平安
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風と君を待つだけ -ゲンゴロウの銀塩日記 vol.91-
 花を飾る人間の不思議、単なる訪花昆虫のマーカーで、生殖器でしかない花を美しい、と思う「人間」は、生物の正常進化(というか、信じられている概念に基づいた仮説)から大きく外れている、と前回に書いた。適者生存、弱肉強食といった迷信からすると、およそ「花を愛でる」という感情は進化しようがない概念であることは少し考えればわかる。洞窟に壁画を残す、死者を埋葬する、こういう人間特有の、生産、生存に結びつかないエネルギー浪費の行動は、どう理由をつけても肉体的、形質的進化につながらない。これらの一連の生活様式の変化ともとれる現象の発生は、あるとき一斉に人類に起こった、革命としか説明がつかないからだ。最近の人類と類人猿をわける基準は知らないが、「道具を作るための道具を作る」のが基準だったときがある。だが、これらの基準は人間の文化の発達とはおよそ関係ない。死者に花を手向ける、などは人類発生時点ではみられないことであり、自然発生的に生じる可能性は低い。そのうえ、これらは世界中のある年代の遺跡から急にみられた不可思議で奇妙な偶然である。これは当時の人類すべての身体の中の魂が入れ替わらないと無理だろう。現代の科学では精神は遺伝しないし、世界同時に発展する共時性の説明がつかないからだ。精神の入れ物としての肉体の進化、もしくは改造が完了した時点で、魂が降りてきたのか。あるいは知恵の実を食べたのか。
 もちろん、個別の観察事例として、カバが肉食獣に襲われたインパラを介抱した、アフリカゾウが妹ゾウの骨を花で触っていた、ニホンザルが死体となったわが子のミイラを抱いていた、ということはある。ただし、これらの事例はコロニー内の文化伝播としては存在しない。あくまで個性もしくは偶然、子育ての下手な個体の特異な観察事例として処理することも可能であるからだ。誤解の無いようにいうと(いつかかくことがあるかもしれないけれど)動物にも意識があり、極めてやさしさと善意に満ちた存在があることはわかる。
 時に、人間よりはるかに高次な意識を示すときもあるだろう。それでも、種として花を「美」「やさしさ」として捉える哺乳類は、人間のみといっていいだろう(この地球の一般的な世界のみに限定した場合)。その中でも日本人は言語脳からして、自然の捉え方が他民族と違うし、今年のような異常とも思える寒い年、「今年は涼しくてようございました」と侍従が述べたら、「何をいうか、お百姓さんの苦労がわからんのか」としかりつける象徴を持った、誇るべき国である。まあ異論はあるだろうが。
 皆さんはこれについて、どう考えますか。肉体的機能の進化と別に、ここまで他者を思いやる心を、文化という形で、生存上全く不利としか思えない形質を種として保持してきた動物が、進化というバクチと偶然で自然発生するでしょうか。動物園のサル山のサル、チンパンジーが花を愛でるようになり、絵をかくときが数百年後に見ることができるでしょうか。そこらじゅうで農作物や花を荒らしているシカが、花は食べなくなるのかな。
 だから進化論はおぼえなくていい、と中間テスト前の子供に言ったら、「先生がいうんだから、しょうがないでしょ」といわれた。いつか、風と君がわかる日まで。
 
suzuran
スズラン:昨日は珍しく気のあった人と飲み会。その店で活けてあったスズラン。これがあるから、店が繁盛するということはないが、通るときに和む客がいる、このために活ける。結果的に自己利潤につながるかもしれないが、そう思う人にこういう活け方は難しい。そういう人が活けると華美で下品になるだろう。これが非常に進化の矛盾をあらわしている、と僕は思う。
サボテンの花 -ゲンゴロウの銀塩日記 vol.90-
 GW後半、管理人さんと別れて、ホームセンターに野菜の苗を買いに行った。おいしいトマトでも、と思っていたが、そろそろ苗としての賞味期限切れになるイチゴが98円均一で売っていたので5種類買ってきた。どれもすごく美味そうな名前である。「あまごこち」、「レッドパール」、「アイベリー」、「まんぷく2号」。。。。とりあえず、植えてみたら思いのほか楽しい。結局、トマトは自分で種をまいた「レッドオーレ」を植えたが、もう2、3本欲しくなった。どこの店に行っても、みな苗を買いに来ている。なぜ人間はこんなに自分で作ることにこだわるのか、実は少し不思議だ。
 本音を言えば、今年の豪雪のとき、買い物にいけなかったときにふと思った。「僕らは幸せだ、この雪の中、シジミをとりにいかなくてもいいし、狩りもしなくていい。」、トマトやイチゴにしても、植えてすぐ食べれるものではない。スーパーに生えているわけでも、農家の庭先から買ってくるわけでもない。食糧自給率はいつもいわれるけれど、トラクターも油も無い状態で、肥料なしの状態で、本当にみんなの手元に野菜が届くのか。糖尿病でないけれど、人間の身体はいまだに飢えに備えている。
 次の日、関西圏のサボテン屋へ行ってきた。小学生以来の友人も一緒だったが、昼時についたので、サボテン屋さんと昼食。その中で原発の話になったが、僕は一言も語らない。僕以外の人の見解はこのようなものだ。「暑いのにエアコンを我慢して生きていけない。二酸化炭素の問題もあるので、今のまま発電してくれればいい。将来は代替ができるだろうから、そのときやめればいい」、これはおそらく過半数の日本人の思いというか、思い込みだろう。
 僕は戻って温室の中でサボテンの花を、デジカメにおさめた。好みはあるだろうが、きれいだと思う。でもなぜ人間は花を見てきれいと思えるのか。地球上、哺乳類ではおそらく人間だけだとすると、何が違うのか。この違いは○○○○があるかないかであるが、と信じているが、とりあえず、今日は春らしく、そして心おだやかであるよう、サボテンの花を皆さんと楽しみたい。1枚目は普通に花屋さんに売っている、マミラリヤ属、もう1枚はロビビアの花の群楽である。(ゲンゴロウ)

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たしかなこと -ゲンゴロウの銀塩日記 vol.89-
 奇跡のリンゴ農家(無農薬、無肥料で栽培に成功した)、木村秋則さんに関する本を何冊か読んだ。TV等でも紹介されているので、今更、僕が語るのも変だが、これらの本の中で述べられている、「学生の頃に龍を見た」「宇宙人にさらわれた」「地球が終わるまでのカレンダーを夢の中で運んだ」、これには感動した。だって、こんなことはしゃべる必要が無いことであり、むしろ、変人、嘘つき等の悪口をまねくだけだからだ。サービス精神で冗談をいっただけだろ、と感じる人もおられるだろうが、僕は大学が青森だから、津軽人がそんなことするだろうか、と疑問だ。かの地のリンゴに対する愛情の深さ、田舎の同調圧力、そして津軽弁の強力さは他県のものに媚びようにも言葉が通じないじゃないか。
 これらの中の一冊を1年位前に読んで、「いいな、僕も龍をみたいな」と考え始めて、色々なブログをあさってみたのが、今の僕につながっている。すごく大げさに言うと、人生は変わったかもしれない。。。。。。。
 結論からいうと、昔の小学館や旺文社の学習雑誌の7月号に「夜、龍が空を泳いでるのを見た」とか学研の「○ー」で「竜神様、撮影された?」みたいな記事から想像できる、明瞭な写真は、いくら胡散臭いネットとはいえ、滅多に無かった。多いのが「龍神雲」で、雲が龍の形に見えるものだが、常識的には「たまたまそう見えただけでしょう?」とツッコんでしまう。そういうのも確かにあると思うが、そう思ったほうが意義ある人生になりそうな写真もある。
 ちなみに、僕の最近の最近の仕事は、某ビーム研究大会の発表要旨を作成している。こういうことは今現在の極私的ランキング(自分の個人的興味の志向程度)ではかなり下の分野ではあるが。。。○○学会のデーターベースでは結構「ゲンゴロウ」の名前はヒットするし、この世界では「中の上」くらいの専門家、F県では「上の下」くらいでないか、と自分では想像している。こんな理系の僕がそう信じなければやっていけない時代、という現実を皆が考えて欲しいと思う。
 話を戻すと、それから僕は常に空を気にするようになった。でもそんな雲はまず見ることが無い。今年の1月にある形で祈祷したときにはじめて、自分が龍神雲だ、と信じれる雲が撮影できた。それから、一月に1回くらい龍神雲みたいな形の雲はみれるようになった。そして、今年の3月、信じられないくらいハイペースでみた。下手したら、朝、昼、晩とみかける。震災1年後を過ぎたあたりがピークだった。また、地震雲は学術的には否定されているけれど、それっぽいものを数多く見た。その時期余震が多かったのも事実である。きっとわざと姿をおみせになる事情があったのだろう。こんなことを書いてはいけないのかもしれないが、僕の精神的な部分の御師匠様は「龍宮城から龍が動くと宮城になる」とおっしゃったのを、今でも忘れられない。
 色々な思いはあるけれど、今なら、きっと皆さんも空を見上げたらそれっぽい雲が見ることができると思う。それほど多くの龍神様が活動している。それは、今見える世界がすべてではない、それを教えてくれているようだ。小田さんが唄っているように。。。。
「君は空を見てるか 風の音をきいてるか」 まだ遅くない。僕はそう信じている。(ゲンゴロウ)

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3月の龍神雲:20日に家の近くで撮影。ブログではわからないかも知れませんが、ウロコ状の雲と拡大するとヒゲや眼もあります。まあ、ただの雲といえばそうですが。

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4月の龍神雲:珍しく祈祷していたら、空の雲が渦巻いたようになりました。そこのどこかにお顔があります。まあ気のせいでしょう、といわれそうですが。
Yours -ゲンゴロウの銀塩日記 vol.88-
 僕が中学の頃好きだった女の子の愛読書が当時「花とゆめ」に連載されていた「はみだしっ子」で、その一種独特の、思春期特有のおませな女の子を何となく大人びてみさせる、三原順の言い回しと画風が僕自身も嫌いではなかった。その作者や「花とゆめ」が今も描いているのか、雑誌もあるのかは大して興味も無いけれど、その中のキャラクターの一人、アンジーが一番気に入っていた。女優を母親とした私生児で産まれ、私の天使(アンジェ)として可愛がられ、後に捨てられる、といった感じだと記憶しているが、自分にとっての天使というフレーズが妙に好きだった。
 一年前、とる物もとりあえず東北にボランティアに行った僕だったけれど、現地では福井県出身者でチームを組まされた。僕自身はカイ・シデンではないけれど軟弱に育ってきたので運動部のような合宿は経験したことないし、いびきの大きさにも定評があるところである。ボランティアの内容、というより、ああいったボランティアの中にもいろんな人間関係のドラマがあった。自衛隊出身者が2名いたし、塹壕掘り、戦車壕の訓練とか色んな面白い話は聞けたが、時に孤立もあれば、不愉快な思いもある。その中で、自衛隊出身Oさんの存在は実に僕を和ませた。廃墟と化した場所を車で移動しているときに、僕はここに住んでいた人たちはどこに行ったのか、そして魂の帰るところは、とか、またろくでもないことを真剣に考えていた。車の横にはOさんがいた。僕は変わった人に思われないよう言葉を選んで慎重に語る。すると、Oさんは、ぼそっと「僕は幽体離脱2回しているんですよ」とかいう。「もっとも2回目は危ないと思って自分でやめましたが。。。」と常識人には語れないことを言う。「だから信じますよ」という。これには別の意味で勇気付けられた。
 ボランティアの期間中、いろんなことがあったけれど、Oさんには人の悪口をいいそうになると、いつもたしなめられた。かばってももらえた。「いびきは自衛隊で当たり前なので全く気にならないですよ」ともいう。被害を受けた住民の被災状況を入力していたとき、僕も疲れて、デスクトップパソコンをノートパソコンのように折りたたもうとしたことがあり、それには笑われたが。。。こうやって見るとさぞかしOさんは年上に見えるが事実は10以上僕より若い。ボランティア行く前、職場の人間関係がぎくしゃくしていたが、どれほど人間を信じられるようになったか、救いがあったか、言葉にできない。
 彼とは東京駅で別れて以来あっていないが、メールは時々来る。
 一度目は「デスクトップパソコン壊していませんか」、二度目はUFOを写真に撮ったという報告の後の返事で「僕も見ました」との添付で「日○焼きそばUFO」の写真を送ってきた。彼こそ僕の天使(アンジー)だったのだろう。「流れるときに疲れた日も帰れる場所がある。それでいい」(ゲンゴロウ)

hanami
花見:僕や管理人さんのテリトリー外の西山公園だ。しかし、たくさんの人が桜を見に来る。津波で破壊された街にもひっそりと桜が咲いていた。桜の下には本当に死体が埋まっているのだろうが、その死体の無念を通り越して再稼動へ突き進む。あの人たちには瞬く星も、咲いている桜も見えないだろう。まして魂の帰る場所も。。。
人生という途中 -ゲンゴロウの銀塩日記 vol.87-
 最近はパワースポットブームだそうである。神社やエネルギースポットを訪れて、気の充実を図る、というものらしい。ブームだから、というわけではないが、僕もあることがきっかけで神社に最近はよくお参りするようになった。
 すごくはしょって説明すると、実家が商売をやっていた関係上神棚があり、その祀り方をまねて見様見真似でやっていたが、ある時妙なことに気づいた。榊の枯れ方が左右対称でない。偶然にしては法則性がありそうなので、調べてみると鎮守の神社と関連があるとのこと。では、僕の家の鎮守の社は。。。と続いたのだが、この話はやっぱり長くなるので、いつか書く機会があったら紹介させていただく。とにかく、最近は神社詣でをこころがけているが、中には偶然に過ぎないけれど縁があった、と感じることがある。
 今日の写真は、毛谷黒龍神社である。2日前の「るるぶ福井」特別版に県有名スポットとの紹介記事を読んで、最近何かと感じることが多い龍神様と関連があることから、一度お参りしたいと思った。すると、本当に偶然、娘の高校入学式の送迎時に通りかかった。「こんなところにあったのか」である。そこで是非神様とのご縁をいただきたい、と偶然の機会に委ねた次第である。今回の写真は、参拝が終わり、振り向きざまに拝殿の上の木を撮ったものであるが、いろいろ感じいる写真である。例のごとく鳥が上手い具合に写っているが、時々ある龍神様やUFOと同じで、肉眼では全く見えていなかった。
 正直、パワースポットで「ここは気を感じる」という思いをしたことは無い。それだけ霊感も無い上に真剣さもたらないのかもしれないが、僕は結構楽しんでいる。パワースポットブームのことではあっても、神社というものに無礼が無い程度に厳かになじんでほしい、と思うからだ。それにしても「千と千尋の神かくし」ではないが、日本にはなんと多くの神様がおられるのか、楽しくなる(本当は恐ろしい神様、厳しい神様ももちろんおいでになるけれど)。
 本心では、この季節はずれの寒波に応えて、日本人が目覚めてくれればと思うが、娘が電子辞書購入を悩んでいるのをみると、「辞書くらい人間が引けよ」といいたくなる。人間はというか日本人はどこまで進めば気が済むのか。人間の変わりに食事をしてくれるロボットか、人間の代わりにセックスしてくれるロボットか。
 福島以来日本人は変われる、と期待したが、まったく原発の安全と関係が無いストレステストを盾に再稼動へ着実に歩む狂気の集団がまだ生き残っていた。携帯電話や電子辞書の電気のために未来の人類にツケを残す原子力の本質は、実に悪質な世界だ。原発を考えることは人間が自分自身を見つめなおすことに等しい。
 鈴木康弘の表題曲ではこう唄っている。 
「この手で掴んだものすべて 捨てて自分に帰ろうか 思い出もわずかな知恵も今 この場所に捨てて帰ろうか 君がそばにいれば それ以上何が必要だろう」(ゲンゴロウ)

yatanokarasu
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